そらがあおくそまるまで
「危ないから降りといでよ、ほら――あっ、あ、危ないって、ほら降りて――こら」
ぼくが両手を差し出すと、夏子(なつこ)は逃げるように更に上へ登っていった。
「たくやなんかだいっきらーいっ」
大きな大きな木にしがみついている夏子は、叫びながら更に登っていく。
「夏子、ほら危ないから」
ぼくは目の前に聳え立つ(そびえたつ)木にそうっと手を掛けた。登れるかな、ぼくに。すこし考えて、そして首を振った。運動神経抜群の夏子と違って、ぼくの運動神経はないに等しかった。
「夏子――夏子ちゃん」
上に向かって声を上げると、夏子が怒鳴り返してきた。
「そのよびかたやめてぇっ」
すこしばかり甲高い声は、高い高い空にすうっと吸い込まれていく。
「夏子ちゃん、いいかげんにしないとお兄ちゃん怒るよー」
一生懸命に上に向かって叫んでいると、また怒鳴り返された。
「たくやはなつこのおにいちゃんじゃないもーんっ」
お兄ちゃんも同然じゃないか、とぼくは小さく呟いた。
夏子はぼくんちの隣――マンションの隣室だ――に引っ越してきた六歳の女の子。今年から小学生だ。ちなみにぼくは、今年から高校生になる。
子供が好きなぼくと外で遊ぶのが大好きな夏子は、初めて会ったその日になぜかものすごく意気投合してしまった。それ以来よく一緒に遊んでいたんだけど、最近夏子がどうもおかしい。
まず一つ目。
「たくやなんかどっかいっちゃえーっ」
最近ぼくのことを「たくや」と呼び捨てにするようになった。前は「たくやおにいちゃん」だったのに、いったいどうしたんだろう。
二つ目。
前は自分から「おにいちゃん」なんて呼んでたくせに、最近はぼくをおにいちゃんだと認めようとしない。なんだっていうんだ。
三つ目。
ぼくは出会ってからずっと、「夏子ちゃん」って呼んでたんだけど、最近はちゃんづけするだけで「だいっきらーい」とか叫びまくる。
そういう年頃なんでしょうか。
思春期とかそういうヤツか?
とかなんとか思ってはみるものの、やっぱりよくわからない。
「夏子ちゃ――夏子ー、危ないからはやく降りといでー」
さっきからいったい何度おなじことを言ったかわからない。
しょうがない。最後の手段だ。
ぼくはポケットに手を突っ込んで、それを取り出した。
「夏子、ぼくと一緒にチョコレート食べようよ」
夏子の身体が、ぴくりと動いた。気がする。
夏子はチョコレートが大好きなんだ。
「い、い、いら、いらなっ――、い、いらないっ」
強情だなあ。
「じゃあぼくが一人で食べちゃうよー? いいのかなー?」
夏子の身体がびくびくっと動いた。手応えは十分だ。
「しょうがないなあ、じゃあ寂しいけど一人で食べちゃおうかな」
すこし媚びたように言ってやる。
じり、じり。
夏子はゆっくりと木を降りてきた。
落ちやしないかとひやひやしたけど、どうやらその心配は無用だったらしい。さすが運動神経抜群なだけある。
「おかえり、夏子」
「……ちょこ」
夏子は頬をりんごみたいにして、もじもじと指を動かした。
その可愛らしいようすに、ぼくは笑みを押し殺すことができない。どうして子供はこんなに可愛らしいことを素でできるんだろう、不思議だ。
「はい、チョコレート」
銀紙に包まれたそれを差し出すと、夏子は慌てて受け取った。手がわたわたと震えている。
「――たくやおにいちゃ、じゃなくてたくや」
なにも言い直すぐらいならたくやおにいちゃんでいいじゃないか。
喉まで出かかった疑問を飲み込んで、ぼくは夏子の言葉を待った。
夏子はぼくの顔色を伺うようにして、また指をもじもじと動かす。
「あのね、たくや。――おこって、ない?」
夏子が今にも泣きそうにぼくを見上げている。
ぼくはふいにふきだしてしまった。
そんなぼくのようすが不満なのか、夏子はぷう、と頬を膨らませる。こういうのは子供がやるから可愛いんだ。
ぼくはくすくすと笑いながらしゃがむ。
目線が夏子とおなじ高さになった。
「しゃがまないで」
夏子が視線を逸らす。
「どうして?」
「こどもだっていわれてるみたいでいや」
だって子供じゃないか。そう言ってしまいそうになったけど、なんとか抑えた。
「どうしていやなの?」
「いやなものはいやなの」
「だから、どうして?」
ゆっくり夏子の頭をなでてやる。子供らしい緩やかな髪が微かに揺れた。
と思ったら、夏子は頭をぶん、と振り、ぼくの手を振り払った。
「どうしたの、夏子」
「こどもあつかいしないで」
ああ、あるよね、そういうの。なんだそんなことか。
「ごめんごめん、夏子はもう小学生になるもんね。子供じゃないよね」
正直、ぼくのなかで夏子はあくまで子供。なんだけど。夏子はきゅうにぱあっと顔を明るくした。それはもう、花やらハートやらが飛び交ってるみたいに。
「そう! こどもじゃないの! なつこ、もうこどもじゃないのっ」
夏子はそれがこの世で一番幸せなことだとでもいうみたいに笑った。そしてふと思い出したように、全力でチョコレートを頬張る。
「おいしい?」
そう訊いてやれば、夏子はがくがくとものすごい勢いで頷いた。うわ、髪の毛すごいことになってるよ。
夏子はチョコレートを急いで飲み込んだかと思うと、満面の笑みで言った。
「あのね、もうこどもじゃないからね、なつこをね、たくやのおよめさんにしてっ」
へ?
ひゅー、と風が音を立てて吹いた。ああ空が青い。
ぼくがまるで石のように固まっていると、夏子はきゅうに走り出した。「きゃーっ、とうとう言っちゃった!」的なオーラを振りまきながら、夏子はマンションへの道を駆けていく。
「空耳、だよね」
聞かなかったことにしようか。
ぼくは考えあぐねて空を見上げた。
空は困っているぼくを嘲笑うかのように真っ青で、そういえば夏子は青空が好きだったな、と思い出す。
空がもうすこし青く染まるまで、ぼくはここにいようかな。そうすればその青に惹かれて夏子がやってくるかもしれない。そうしたら訊いてみよう。
さっきなんて言った? って。
きっと夏子は頬をりんごみたいにして照れるんだろう。
ぼくは笑って空を仰ぐ。
空がもっともっと青く染まるまで、ぼくはこの木の下で夏子を待っていよう。
空が青く、染まるまで。
―終―
原稿用紙換算:九枚
相互記念に押し付けた作品。空を書くのは大好きです。
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